Ikaros

 女は山を見ている。
 真紅の髪、真白な肌に浮かび上がるような
濡れた瞳の黒に、灰色の岩山が映る。


 あの山は、胡孫の卵。
 硬い岩に閉じこめられて、自分まで岩になってしまったかのように、
胡孫はぴくともしない。
死体でさえ、死後硬直の溶ける頃には揺らぎもするというのに。


「――まだあんなものを見ているのかね?」
 声をかけても、女は猴しか見ない。
 泣くわけでなく、縋るわけでなく、岩の隙間から僅かに姿を覗かせる猴を見ている。
「釈迦はこいつの魂まで岩に帰してしまった。
 どんなに思っても見守っても、奴は気づきもすまいよ。
 それで何になる?」

「じゃああんたは何故ここにいるの」

 ようやく、一語一語、紡ぐように発された
 女の声が震えている。

 肩も瞳も表情も、何一つ揺らがさぬまま
 声だけで泣いている。

「大聖に未練があるのは、平天大聖、あんたでしょう?」
 挑むような射殺すような強い眼はそのままだ。
 まさに羅刹の名に相応しいと平天が嗤う。










 花果山を根城に、義兄弟七人集って夜毎日毎宴に興じるばかりだったあの頃。
 数多の牝猿が侍女に扮して酒やら水果やらを運んでくる中、一つ異なる輝きの花を見いだした。
 水簾洞の主や、その義兄に色目を使う牝共の中、そいつだけは媚びぬ。微笑ぬ。ただ黙々と主を見守る。

 平天は知った。この女だけが『悟空』を見ている。

 『美猴王』も『斉天大聖』もこの女には見えないのだ。
 此奴が見るのは、石猴・『孫悟空』だけだ、と。




「其の女の名を何という」

 酒杯をやや傾けて、指さす代わりとした。
 斉天の方は話と枇杷の皮むきに夢中で、数拍反応が遅れた。
「……此奴か?」
 己が背後を振り返る。其の先には赤い髪のあの女。
「名など知らん。居るから使っているだけだ。呼ぶなら『来』で事足りる」
「冷たいことだ。優しくその名を呼んでおやり、悟空」
 嫌がらせのように、わざとその名を呼んだ。
 案の定、斉天の顔に皺が寄る。
「……お前、名は」
 渋々。嫌々。止むなく。
 斉天は大儀げに侍る女の名を問うた。
 女が答える。
「名は有りませぬ」
「ないのか?」
「父母の居ないまま育ちました。名を呼ぶものもおりませぬ。
 大聖の仰有るとおり――名など無くとも不自由を感じた例しのなくば」

 父母の居らぬ――
 そう聞いたときの、斉天の表情こそが見物だった。

「お前も、天地の子か?」
「畏れ多いことです。私めは凡胎の子。下賤の子。記憶にも残る以前に亡くしたまでのこと。
 大聖と我が身を並べようなど、思いもよりませぬ」
「そうか」
 それはそうだ。
 大地の気を孕み、石卵より生まれ出づるなど早々いくつもあって良い話ではない。

 それはそうだと、

 斉天自身分かっていながら、何故にそんなに寂しげな眼をするのか。


「ならば、斉天、名を付けてやれ」
「俺がぁ?!」
 我ながら名案と思ったが、斉天は渋い顔をした。眉根と額に大いにしわ寄せ、しばらくあーうーと唸ってはいたが、
「――俺は、向かん」
 結局は匙を投げた。
「大哥、あんたの方がそういうのは巧そうだ。代わりに付けてやってくれ」
「何だ、お前の侍女だろう」
「名を聞いたのはあんたじゃないか」

 勿体ないことだ。なかなか無いぞ、女の名を――世界を、決められる権利を持つなど。
 その権利、放って俺にくれてやるとは、何たる贅沢かな斉天よ。

「羅刹だ」
 それは、西方の鬼神の名。
 人を喰らう鬼の名。
「……女の名としては、些か厳めしくはないか」
「其の女にはよく似合おう」
「お前、どう思う」
 振り返り、女の意見も聞く辺り、お優しいことだと俺は思う。
「私の意志など、端からございません。
 私は、大聖、御身に仕える身。大聖の意志が私の意志にございます」
「――ならば。羅刹」
「はい」
「お前は今日から羅刹だ」
「はい」
 女の貌が。
 眉も瞳も動かさぬまま、その唇の両端をほんの少し上向けた。

 微笑みなどとは、ほど遠いが。

 確かに『羅刹』は、喜んでいた。










「私が、何に未練を残すというのだね?」
「誤魔化すな」
 会話すること、意識を平天に向けることで、少しずつ羅刹は平静を取り戻す。
 微かに震える声が色っぽかったのだが、と平天はやや残念に思う。
「私は知っている。あんたはあの人を依代にしていた」

 ――よく見ている

 聡い女は好きだ。平天はますます嬉しくなった。



 あの胡孫は私の夢だった
 叶わぬ夢を勝手に託した

 我ら妖の者は一度堕ちれば這い上がれはしないもの
 上を目指して転げ落ちていく奴などざらだった

 だが彼奴は
 天を目指し 志を遂げ
 更に更に高みへと駆け上がっていった
 焦がれるように呆れるように
 見上げる我らを置き去りにして


 急ぎすぎたのだ、奴は
 じっくり足場を固めていけばよいものを
 今や光を失った石猿は石卵に帰り
 大地に縛り付けられた



「あのお方に懸けた夢、打ち砕かれて、あんたはこのあとどうする気」
「どうもこうも」

 夢など端からそうしたものだ。
 しかも他者に託した夢なら、なおのこと。
 相手の気分次第、運次第。
 『こうなればいい、こうあって欲しい』と望むのはそりゃあ勝手だけれど。

「叶わぬのなら、夢を見る前に戻るまでのこと。それまでだろう」
「忘れるの?!」

 初めて――いや、悟空に名を呼ばれたあの時以来。
 羅刹は感情を見せた。
 これは怒り? 驚き?
 同志と思っていた俺に裏切られた、絶望と悲しみ?

「あんたは、忘れられるの? あの人を。私にとって、あんたにとって、あんなに輝かしい存在だった人を!」
「忘れはしないさ」

 忘れることなど出来ない。

 でも、今は――お前がいる。
 お前と共に、別の夢を見たいと俺は願っているのだよ、羅刹。

 等と言えば、「馬鹿にするな」と殴られることは目に見えているので。
「ならば羅刹女、こうしないか?」
「?」
「彼奴の思い出話を肴に、飲み交わそう。今尚奴を慕うもの同士」
「そんなことしたら……あの人が過去になってしまうわ」
「ならば待とう。奴が帰ってくるのを、二人で」
「……」
 考えて、
「此処でひとりで待つより、少しは良いかもね」
「ならば決まりだ。西域から取り寄せた珍しい酒がある」
「いいわね」




 奴の戻ってくる日まで、百年、二百年、あるいはもっと。
 我らにとっては多分そんなに長くはないさ。

 どうかその日までだけでも、私の隣にいておくれ。
 私を世界と成しておくれ。