不東

 まるで燃えさかる松明を頭上に掲げているかのように、威勢の良い太陽の下を取経僧の一行が通る。
 そんな日にも、西への道は涼やかな木陰ばかりではない。草さえ満足に生えぬ荒野を進まねばならぬ時もある。
 乾いた、土とも砂ともつかぬ大地。周囲には疎らに転がっている巨岩と丈の低い草がちょぼちょぼ。四方八方、人の気配は悟空にさえ微かにしか感じられない。

 この荒涼とした道を往きながら、悟空は幾度もチラチラと斜め上に視線を送る。
 彼の視線の先には、滝の汗を流し、虚ろな眼で西を見据える師匠の姿。

『お師匠様、お疲れでしょう。どうですそろそろお休みになっては?』
『否、大丈夫だ。それより先を急ごう』

 先ほどから、不毛なまでにその会話の繰り返しだ。今や、辛うじて上半身を起こし馬上に座っている師匠のことは、益々不安ではあるものの、

(どうせ何を言っても「大丈夫」としか言うまい)

 全然大丈夫ではないくせに。

 大体が、馬に乗っておいて何をそんなに苦しむのか。
 こちとら手綱を引いて一日何十里も歩き続けて、あげく荷物まで担いでいるのだ。
 人とは弱い者だと知ってはいたが、太陽の下を通っただけでこんなにへばってしまうのでは、まるで日干し寸前の蚯蚓だ。

 人と関わるのは実におよそ壱千年以来、おまけにその時の友人・兄弟弟子たちは、皆仙術の鍛練を積んでいる。
 経文ばかりに親しんだ、極普通の力しか持たない人間に初めて接した悟空は、そのあまりの脆弱さに戸惑い、呆れている。

(何だってこんなモンを護らなくっちゃぁならねえんだろう。因果なこった)
 密かに嘆息をついた瞬間、不意に悟空の上に陰が降りた。

 この、まともな樹もない場所で?

 気づいた時には手が動いている。荷物をかなぐり捨て、あわや墜落するところであった師匠の体を支えた。
 見れば、龍の化身した白馬の方でも唐僧の袈裟をしっかと加えて落下を防いでいる。
「危なっかしいったら、ありゃしねえ……」
 ブルルルッ
 同意するように馬が低く嘶く(ただし器用にも口は開かずに)。
 当の三蔵は、暑さにやられてすっかりのぼせ、昏倒していた。


 ――――――


 火の爆ぜる音に、三蔵が目を覚ました頃には辺りはすっかり黄昏れていた。
「目が覚めましたか?」
 ややあきれ顔で悟空が尋ねる。その顔が焚き火に照らされて赤い。
「まったく、だから休みましょうとさんざん忠告したのに、聞き入れないからこうなるんですよ。
 言っときますけどね、これまでの路なんざぁ西天への道中じゃぁ生温い方なんだ」

 悟空の小言が耳に入っているのかいないのか、三蔵はぼんやりと悟空のかけてくれた毛布を握りしめ、藍と紫の混じり合う天を見上げる。

「私は、どれほどの間……」
「ざっと三刻ばかりは」
「そんなに!」
 三蔵はあわてて跳ね起きると、バタバタと身支度にかかった。
「お、おいおいちょっと待てよ! まさか師匠、あんた今から西へ向かおうってつもりじゃあないでしょうね?」
「無論そのつもりだ」
阿呆か!

 師に対する(建前上の)礼儀もさっぱり忘れて、罵る悟空の気持ちも分からなくはない。

「もうじきに夜も更けます。
 そうすりゃあ今度は寒さにやられちまうし、何より宵は妖怪やら虎やらの跋扈する時刻ですよ。あんたなんざぁあっと言う間に襲われちまう。
 どんな御崇高な志で西を目指されるのかコチトラ知ったこっちゃぁねえが、喰われたり死んだりしちゃあお終いじゃねえんですか?」

 捲し立てられる悟空の叱責を三蔵は黙って聞いていたが、やがて思いもかけない言葉を返した。
「悟空や、そなたは鶏がどのように死ぬかを知っているか?」
「……ニワトリ、ですか?」

 今、この話に。

 鶏が。

 どのように関わるというのだ?

「老衰の鶏は、立ったまま昏睡状態に陥る為、その骸は前のめりに倒れ込むのだそうだ」
 幼少時代を過ごした寺の近くに農家があり、そこで飼っていた雌鶏もやはりそうして死んだという。
 卵をよく産む良い鶏だったから絞めずに飼っていたけれど、鶏も寄る年波には勝てないのだと人の良い農婦は話していた。

「……はぁ」
 それがどうした、という言葉を飲み込むのがこんなに辛いと、悟空は初めて知った。
「この話を聞いて、どう思う?」
「……老いぼれる前に、鶏はさっさと食えってことですかね」
「成る程。私とは少し感想が違うな。私は、その雌鶏が羨ましかったよ」

 妖怪に食われることなく、寿命を迎えたいということだろうか。
 だが三蔵の真意は別にあるらしい。

「私も、もし運悪しく道中に最期を迎えることがあろうとも、その様に在りたい。一歩でも西へ向かい、西へのめり込むように死のうと覚悟しておる」


  一時も足を留めず、
  一歩でも西に進め、
  例え倒れようとも、
  西天に頭を向けて、


 ――この人は本当に西天に行きたいんだろうか

 悟空は思う。
 もしかしたら、三蔵は西天へ行くのが目的ではないのかも知れない。
 西を目指しながら、西へ着きたくないのかも知れない。この旅が終わるのが嫌なのかも知れない。

 ――冗談じゃぁねえや


「死んでも、なんて言うもんじゃありませんよ」
 師匠が何故西を向くのか、そんなことは知らない。俺は俺の意志で動く。
「この俺があんたを西天まで連れて行く。斉天大聖様が付いてるんだ、あんたは死にっこねえさ」
 もしこいつが死んでみろ。
 釈迦や観音はどうする気だ。また唐から僧を遣わすのか? そうしてそいつが西天へ着くまで、また一から俺がついて行ってやり直すのか?
 そんなことをしてりゃぁ何時まで経ってもこの頭の輪っかは外れない。
 だから。
「あなたはもっとご自愛なさい。意地でも、西天へ行こうじゃありませんか」
 意地でも、こいつを西天まで連れて行ってやる。
 どれほどこいつが訳の分からん面倒な存在でも、それが俺の自由への最も近道だから。
「そなたは頼もしいな」
 朗らかに笑う三蔵。


 ――彼がいれば、西天よりももっと遠くへ行けそうな気がする。


「これからも、宜しく頼む」
「こちらこそ。せいぜい無茶しないようにお願いしますよ」
 二人が今更ながらに交わす言葉に、それまで眠っていたかと思われた白龍馬が鼻先を突っ込む。自分を忘れるなと言うように。
「そうであった。お前もね」
 三蔵に顔を撫でられ、くすぐったそうに龍馬が目を細めた。




 その旅の前方に、どんな困難と災難が待ち構えているのか。
 どれほど大切なものがこの旅で得られるのか。

 彼の斉天大聖にも猜り知れない、今はまだ旅の初め。