初陣

 幾重にもうねる蒼き山々の合間を白い霧が立ちこめる。天空高くより見下ろす景色はいかにも清々しいというのに、その山の一つ、際だって高い尾根より立ち上るのは、黒く澱んだ気の固まり。

 あの山に、天に唾吐く妖怪どもが巣喰い、蜂起直前だという。闘戦勝仏という、慈悲が売りの仏としてはあるまじき戦う如来である悟空は、こうした時のために存在する。

 どんな妖邪がどれほど居ようと、悟空一人いればホンの数刻もかからず仕事は片が付いてしまう。それでも西天の体面とでもいうのか、いつもは背後にぞろぞろと天部・明王部より集められた護法の神仏が引っ付いているのが常であった。

 今日は違う。今日の戦は新たに天部の護法神として職を受けた者の初陣であり、その者と、彼の応援のために選ばれた悟空のたっての願いで、二人きりで戦に挑む。

「おぬし、実戦は久々だろう。その腕、鈍っていやせんだろうな?」

 悟空が問えば、

「さすればでございます、こうして闘戦勝仏様にご足労いただきましたのも、全てはそれがしの実力覚束無きをご心配なされた釈迦如来と観世音菩薩様のご慈悲に有らせられば」

 長々と述べられた、丁重というより卑屈な物言いに、堪らず悟空は吹き出した。そんな悟空に、相手も唇の端を歪めてニヤニヤと笑う。その微笑みが、諂いは口先だけだと言っているようなものだが、悟空は咎め立てなかった。

「よしよし、とはいえ今日の戦はおぬしのものだ。俺様はあくまで助っ人、功成るや否やはおぬしにかかっている」

「御意」

 畏まった言葉が再び悟空の笑いを誘うが、容易いとはいえ仕事の前だ。気を抜いてばかりも居られない。


 財も色も食も、あらゆる欲と縁の薄い悟空であるが、名だけは欲する悪癖がある。仏になったとはいえなかなか治らぬこの癖を押さえ、今日の功績を譲るのは、単に相手が初陣の後輩だからというわけではない。



 *



 始めにこの仕事の話を聞いた時、悟空は全くやる気が起きなかった。要は新人研修、失敗した時の尻ぬぐい係ではないか。如来にまでなった自分の仕事とは思えない。

 それでも、少なくとも耳を傾けてしまうのは、話を持ってきた相手が観音菩薩だったからに他ならない。今や自分の方が格でいえば上になろうと、観音だけは蔑ろにできないのは、取経前から延々続く腐れ縁のせいか。あるいは性格や相性といった問題か。

「その程度のこと、他にいくらでもやれる奴はいるでしょう。俺様ごめんですよ」

 無駄とは半ば知りつつも、それでも言わずにおれない。

 明王、天部、邪を払い障害を除くため、武器を持ちて戦う護法善神は決して悟空一人ではない。

「新たに天部に奉られし者、名を毘舎闍(びしゃじゃ)天と申しますが」

 問答無用で肘鉄砲を食らわされたにもかかわらず、観音菩薩は笑みを絶やさぬまま続けた。

「闘戦勝仏にご助力賜りたいとは、その者のたっての願いでございます。それを聞いて、釈尊もぜひにと」

「ご指名ってんですか? 冗談じゃねえ、新入りのくせにこの孫様をこき使おうなんざ生意気にもほどがある!」

「その者は、かつて大罪を犯したものの改悛し、仏法に帰依いたしまして長らく修行を積んで参りました。そして今その功成りまして、天部護法神の一人に名を連ねるまでに至りましてございます」

「はいはい、大したもんだ」

「その者の俗名を、知りたくはございませんか? ──悟空」

 思わせぶりなところで話を切り、昔ながらに名を呼ばわる。ギョッとして悟空が観音の顔に見入ると、我が意を得たりとばかりに菩薩が笑う。

 どうしたって敵いやしない。自分が仏になったって。相変わらず、悟空は観音と釈迦の掌の上だ。



 *



 毘舎闍天の俗名を聞いて、二人っきりの初陣を申し出たのは悟空だった。

 手合わせしたことは数限りない。群れて悪さをしたこともある。だが、二人きりで、共に戦うというのはまだなかった。


 雲上より見下ろす二人の仏神に気づき、山より妖怪の一軍が現れた。

 否、軍というより群と呼ぶのがふさわしい、有象無象の破落戸である。

「斉天大聖、平天大聖!!」

 群れの一匹、頭領格の妖怪が大声で懐かしい名を呼び立てた。

「きさまら、元は我ら妖怪の仲間のくせに、よりにもよって西天なんぞに寝返りおるとは、なんたる反側!」

「……だとよ、大兄。どうする?」

 ニヤニヤと笑みを浮かべ、悟空は隣の毘舎闍天──俗名を牛魔王、または平天大聖──を見上げた。

「奴らごとき三下と仲間だった覚えはないな」

「全くだ」

 牛魔王の仲間、ということは、ひいては悟空の仲間だったことを意味する。

 昔の話は若気の至りといえど、あんな雑魚とつるんでいたと思われては孫様の価値まで下がるというものだ。


 牛魔王の言葉に、妖怪どもが殺気立つ。一触即発の空気に悟空の気が高ぶった。堪らず金箍棒を腕ほどの太さに変え、いきなり妖怪の群れへと打ちかかる。

「行くぞ大兄!」

「あっ、こら悟空! 貴様何が『今日の戦はおぬしのもの』だ!」

 義兄の言葉も馬耳東風。牛魔王が慌てて後を追う頃には、すでに数匹が悟空の手にかかっている。それでも、殺さずにすみそうな奴は殺さぬようにと、配慮できるようになっただけ悟空も進歩している。


 共に戦うのは幾百年以来。それでも覚えている、相手の戦い、気の流れ。見ずとも、今どこで何をしているのか手に取るように分かる。




 西天に護法善神数あれど、彼らに勝るものなしと謳われる二闘神誕生の瞬間であった。