外は白い雪の夜

 それはとある雪の降る日。取経一行は大きな国で宿を取り――

 そしてその夜、悟空が倒れた。




「天下の斉天大聖様でも風邪引くことあんねんなー♪」

「うっせーよ! 大体てめぇ……がっごほっ!」

「悟空、大人しくせんか!」

 今にも布団から飛び出して八戒に食ってかかろうとする悟空を、三蔵が無理矢理押さえ込んだ。

「しかし八戒の言うことも少しはもっともだ。なぜお前ともあろう者が風邪など引いたのだ?」

 師の問いかけに、悟空は思わず口ごもった。その疑問に代わりに答えたのはおしぼりの換えを持ってきた悟浄だった。

「自業自得なんですよ、兄貴の場合は」

「お前は黙ってろ!」

「事実でしょう?」

 そもそものことの起こりは、悟空と八戒が着いて早々町外れに川を見つけたことだった。

 先日の通天河での一件で、「水中は苦手だ」と言って一人では河に潜れなかった悟空を八戒がからかったのである。

『なんだったら俺が泳ぎの特訓したろっか? あ、それとも水に入るのも怖いんかなー?』

 ニヤニヤと、いかにも皮肉っぽく笑う八戒。そこまで言われて引き下がる悟空ではない。ムキになって飛び込んだものの、冬で水温も低い上に予想以上に流れが急だった。それでも意地を張って数刻の間上がろうとせず……

 夕暮れ近くに心配になって様子を見に来た悟浄が何とか川から上がらせると、そのまま悟浄の腕の中に倒れ込んだのであった。

「本当に、心配したんですからね!」

「それは確かに悟空が悪いな。つまらぬ意地で自分の体を壊すなど以ての外だ」

 悟浄と三蔵が口々に責める。どうもこの二人に悟空は弱い。しかもタックまで組まれたらもう太刀打ちできなかった。

「……う~」

「分かったら、明日いっぱいまでは大人しく寝てて下さいね?」

「だ、大丈夫だよ! もう熱も引くって!」

「悟空」

「兄貴」

 二人とも怒鳴るわけでもなく、ただこちらをじっとにらみつけている。だからよけいに怖い。

 悟空は渋々頷くしかなかった。




 ふと悟空が目を覚ますと、もう外は真っ暗だった。暗闇の中、まだしんしんと雪は降り積んでいる。

(いつの間にか眠っちまったんだな……)

 一人ごちると、布団から上体を起こした。薬のせいか一眠りしたせいか、体調はずいぶん良くなっている気がした。

(もう大丈夫……かな?)

 軽く腕など回して、調子を確認してみる。

 もうずいぶん遅い時間のはずだ。三蔵はとっくに寝付いているはずだし、八戒も起きてはいまい。

 今のうち、とばかりに悟空はイソイソ窓枠に手をかけた。今日は一日中寝かされていて、体がなまってしょうがなかったのだ。今からでも少し運動してから寝直そうと悟空は考えた。

 いざ、筋斗雲を呼――ぼうとしたその瞬間、大声で呼び止められた。

「何やってるんですか?」

 声の主は悟浄だった。悟浄はほとんど体を窓の外へ乗り出させていた悟空を布団の中へ連れ戻した。悟空が悟浄ごときに捕まったのは、やはり体調が万全ではない証拠であろう。

「今日はちゃんと寝てなきゃダメだって言ったじゃないですか!」

(まだこいつが起きてたか……)

 軽く舌打ちしつつ、取り繕う言葉を探した。

「ちょ、ちょっと夜風に当たろうと思って……」

「こんな時に体を冷やしたら悪化する一方でしょう!」

「あ、あれだ! 変な妖気を感じたから、お師匠様を狙った妖怪じゃねえかと……」

「……兄貴」

 ジロリと悟浄が悟空を見据える。耐え切れぬように悟空は視線を泳がせた。

「要はただ単に退屈してますね?」

「だ、だってよー!」

「だってじゃありません! こんな寒いのに外に出たら風邪が悪化するに決まってるでしょう! 倒れたあなたを見たとき、俺がどんな気持ちだったと思うんですか?」

 いつになく悟浄の口調は強かった。その言われように悟空は腹を立て、殴って黙らせようとしたそのとき、悟浄の手が悟空の肩を強く掴んだ。

「悟浄?」

「……っもう、俺に」

 一転して、悟浄の声はくぐもった音に変わる。

「俺に、二度とあなたを亡くす恐怖を味あわせないで下さいっ……!」

 ポタッ

 悟浄が言葉を発し終わるのとほぼ同時に、悟空の胸に熱い滴が降って、すぐ冷えた。

 熱い滴――涙?


 そういえば、こういう場面が前にもあった。

 涙をこぼす悟浄の姿から、悟空の頭に一つの場面が再生される。


 あれは紅孩児の一件の時、悟空がふとした拍子に気絶したときがあった。

 どれほどの時間がたったか、目が覚めたときにまず考えたのは師匠の身の安全だった。「お師匠様!」と叫びながら飛び起きると、真っ先に視界に飛び込んできたのは泣きじゃくる悟浄の顔。涙でグチョグチョのその顔を何とか笑わせようとして、妙な具合に頬を歪めながらコイツは言った。

『兄貴は生きててもお師匠様、死んでてもお師匠様だな……』


 それからしばらくして、悟浄はこの時のことをこう語った。

『あのときは、兄貴が本当に死んだと思ったんです。兄貴の、ずぶぬれの冷たい体を抱えて、すごく怖くて……涙が止まらなかった』

 それを聞いたとき、はっきり言って悟空はあきれ返った。

 馬鹿な奴だ。この俺がそう簡単に死ぬもんか。

 そもそも、俺が死んだからってコイツが泣く必要もない。自分が師匠のために泣くのとは訳が違う。兄弟子が死んだからと泣く前に、自分で師匠を助けに行こうとは思わないのだろうか?

 分からないことはいっぱいあった。実は未だに分からない。分からないけど。

 一つだけ分かることがある。



 泣いてるコイツには勝てない。



「…………ゴメン」

 悟空としては珍しいほど殊勝な言葉に、逆に悟浄の方が焦ってあわてて涙を拭った。

「そ、そんな……ただ、俺は兄貴が心配だっていうことを分かってほしくて……」

 いつにない兄弟子の態度に悟浄はすっかり困惑しているようだった。そんな彼の様子を見ながら、悟空は先ほど言われた言葉を思い出した。

『俺に、二度とあなたを亡くす恐怖を味あわせないで下さいっ……!』

(そういえば、俺のために泣いた奴って初めてかもな)

 自分が師匠のために泣いたことはある。でも、誰かが自分を思って泣いたのはあの日が初めてではなかっただろうか。

 悟空の脳裏に、再びあの光景が浮かんだ。ずぶぬれで冷え切った自分を抱えた悟浄の心境とは、どんなものであったのだろう。

「悪かったな、もう病気の時に無茶はしない」

「……本当ですか?」

「ああ。もうお前に泣かれちゃ敵わねえからな」

「?」

 悟浄は意味が分からないらしく、ただキョトンとしている。そんな悟浄を見て、悟空は一人ほくそ笑む。


 漆黒の夜空の中、世界を染め直すかのようにまだ白い雪が降り続いている。

 降り積む雪に覆われるように、悟空の心も少しづつ変化していくようだった。