月光悲歌

 一人になって空を見上げて、やっと今宵の月の青さに気がついた。

 月の持つ光は太陽のそれより静寂で、冷たくて、柔らかい。それが悟浄の性には合っていた。


 悟浄は太陽より月に安らぎを感じる。

 陽より陰を。
 動より静を。

 理想とするところは悟空のような活気なのだが、結局肌合いというものが違うらしい。



 だから、今日のような場もどうもなじめない。



 宝象国の公主、百花羞を奎木狼の手から救い出した三蔵一行は、国王から盛大な歓待を受けた。当然、公主の帰りを祝し、一行を歓迎する宴席が開かれる。贅を尽くした食事、華々しい歌舞、人々の口から絶えず述べられる賞賛の言葉……。

 護国の英雄と持てはやされれば悪い気はしない。だが、悟浄は心愉しまない。
 悟浄は自分がここにいるべき存在だとは思わない。自分は奎木狼に捕らえられ、公主とともに悟空によって助け出されるのを待っていただけだ。

 居た堪れなさと退屈さに、悟浄は一人宴席を抜け出し、王宮内を彷徨っていた。途中、長廊の一角に四阿のように落ち着ける場所があるのを見つけた。その欄干にもたれて見上げれば、今宵は月がよく見える。漆黒の天鵞絨に転がる珍珠のように。

 その背中に、声をかけるものがあった。

「――まぁ、こんな処にいらっしゃいましたの」
 突然の声に悟浄が振り返ると、何時の間にか背後に百花羞が立っていた。
「公主!? 一体いかがなされました?」
 いくらもう小娘ではないとはいえ、しかも自分の勝手知ったる宮殿内とはいえ、女が夜中に一人で出歩くものだろうか。

「いけませんよ、こんなところを誰かに見つかっては大変です。さあお席にお戻りください」
「沙悟浄様だって、こちらにいらっしゃるではございませんか」
「今日の主役はあなたですから」
「あら、違います。本日の宴は、神僧様御一行をおもてなしするためですわ」
「なら――」

 悟浄の瞳が一瞬、寂しそうに伏せられた。

「尚更私には居辛いのです」
「何故です?」
「私は……今回も何もしていません」

 もう自分は知っている。

 いつだって、自分は無力だ。

 それを悔しいとする思いも、だから仕方ないのだと諦める気持ちもある。
 だが、悟浄の言葉に百花羞が頭をふった。

「どうか、そのようにはおっしゃらないでくださいませ。悟浄様は、私を助けてくださったではありませんか」
「お助けしたのは、私の兄弟子です」
「いいえ、あの妖怪に詰問されたとき、庇って下さったのは、他でもないあなた様です」



 百花羞が宝象国王に宛てた手紙によって、八戒と悟浄は再度黄袍怪に挑んだものの、途中で八戒が逃げ出したこともあって悟浄はあっさり捕虜となった。
 さて黄袍怪としては面白くない。
 何故奴らはまたもや襲ってきたのか。師匠は返してやったというのに。
 疑いの目が妻・百花羞に向く。

 ――奥や、奴らに何か吹きこまなんだか?
 ――いやですわこの私をお疑いに?
 ――さては密かにあの坊主に手紙でも持たせたか
 ――誤解ですわそんなもの書きませんとも
 ――ならば証人がおるから奴に聞けばよろしい

 恐らくはそんな問答の末、黄袍怪は百花羞を引きずり、縛り上げられた悟浄の前まで連れて来た。

「正直に申せ」
 黄袍怪の眼が赫怒に光る。百花羞は青ざめた顔でその手から逃れようとするが、その針のように細い腕で敵うはずもない。
「貴様らが厚かましくもここへ押しかけてきたのは、この女が国王に手紙を出したから――そうだな?」
 この言葉に百花羞の顔からは益々血の気がひき、その表情は強ばっていく。まるで陶器で出来ているかのように。
 自分が一言「対」と肯定すれば、彼女は確実に死ぬのだろう。

 彼女は自分の師匠を助けてくれた。
 ならば、私は彼女を救わねばならぬ。

 一世一代の大芝居だ。

「妖怪め、無礼を申すな! 公主がどんな手紙を出したというのだ、難癖つけて彼女を殺すつもりか?
 俺たちがここに公主を探しに来たのは、ちょっとしたご縁があった為だ。貴様が俺の師匠をここへさらって来た時、師匠はこちらの公主の様子を見ていた。
 それから宝象国に着いて関文を改めてもらう際、陛下は公主の姿絵を作り行方を捜していた。だから俺の師匠にも姿絵をお見せになって、公主を見なかったかと尋ねたのだ。師匠が公主のことを話すと、陛下はそれが自分の娘だとわかり、俺たちに御酒を賜り、貴様を捕まえて公主を連れて帰るように命ぜられたのだ。
 さあこれが事実だ、どこに手紙があるというのだ? どうしても殺すというなら、この俺を殺せ。無辜の人を害し、天の道理に背くことままならんぞ!」

 悟浄の啖呵に、黄袍怪もすっかり呑まれた。慌てて百花羞に弁解しつつ宥めにかかる。だが百花羞の方では妖怪の言葉を半ば聞き流し、悟浄だけを見つめていた。
 巧みな機転により自分を救ってくれた、命の恩人を。



「今もあの時のお礼を言おうと思いましたのに、お姿が見えないものですから、ずいぶんと探しました」
「私、を――」
「そうですわ。あの時あなた様が機転を利かせてくださらねば、今ごろ私はここにおられませんでした。本当に――有り難う御座います」

 ぴょこんと頭を下げてから、再び百花羞は悟浄の顔を見つめた。その頬が、仄かに朱を帯びている。
 彼女の、自分を観る瞳の意味は、さしもの悟浄にもよく分かった。

「師匠を助けていただいた恩義に応えたまでのこと。礼を言わねばならぬのは、我々です」
「お師匠思いでいらっしゃいますね」
「師匠を護り、西天へ辿り着くのが我らの使命ですから」

 その言葉に。
 それまで頬を紅潮させ、幸せそうに喋っていた百花羞の唇が引き連れた形で固まった。
 分かっていることとはいえ、彼の口から直接聞くのは辛い。

「遠くまで行かれるのですね」
「はい」
「いつ発たれるご予定ですの?」
「出来れば明日の朝にでも」
「そう、ですか……お早いのですね」
 百花羞は目を伏せ、窓下を見つめたまま掠れたような声でつぶやく。
「残られるつもりは、ございませんか」
 悟浄はただ黙って公主を見つめる。百花羞の伏せられた長いまつげを、欄干を掴んだ細かく震える手を、怖いほど細い肩を見つめる。

 悟浄は百花羞の言葉が嬉しかった。悟空のような力も、三蔵のような精神力も知識も、八戒のような愛嬌もない自分。そんな自分でも、人に感謝してもらえるだけのことが出来たのだと判って嬉しかった。

 だけど。
 だから。

 百花羞の好意が恐ろしくもあった。

「公主は、私のことを何もご存じない」
「そんなこと、ございません。あなたの優しさを、誠実さを知りました。あなたは尊い聖僧でいらっしゃいます」
「聖僧、ですか」
 悟浄の顔がくしゃりと歪む。微笑んでるのに、ひどく痛ましい顔をして。

「公主、私は

 人を食べて生きてきたのですよ」


 百花羞の眸が、ひときわ大きく見開かれた。

「――人を」
「はい」

 微笑む表情に、微塵の変化もない。
 いつもの、穏やかな、どこか精悍な笑顔のままで悟浄が続ける。

「ひどいものでしたよ。老いも若きも区別なく、幼子を連れた母親も、道を求めて旅立つ僧侶も、肉も臓も骨に僅かなこびりつきさえなくなるまで。公主のようなうら若き女性だって、数え切れないほど。私の住んでいた河のそこには、骨の山が出来上がるんです。私が食べた人々の骨が、こう、私の肩あたりまで積みあがって」

 百花羞の体が、小刻みに震えるのが分かる。恐らく今この無垢な公主は頭の中に、精一杯の残虐きわまりない光景を思い描いていることだろう。

 悟浄は待った。

 百花羞がおびえてあげる叫びを。
 人殺し、妖怪という罵詈讒謗を。
 彼女が自分から一歩でも遠ざかろうと逃げ出すのを。

 あとで知られて、罵られて、傷つくくらいなら、先に自分でばらしてしまおうと。
 やっと見つけた綺麗な宝物。あとで失うくらいなら、先に自分で壊してしまおうと。


 だが、百花羞の答えはそのいずれでもなかった。

「――でも、私を助けてくださったのは、あなたです!」

 その眸は一途に悟浄を見つめたまま、震える肩を止められぬまま、断固とした声で百花羞は言う。
「千の命を奪うことと、一つの命を救うこと、どちらが難しいでしょうか。私は、過去のあなたに救われたのではありません。その過去を捨て、新たに生きてゆかんとするあなたに救われたのです!」

 ――そうでしょう?


 そうだ。


 過去を今更変えることはできないように、今の自分が過去によって歪められることもない。
 あの罪が消えることはないけれど、それでも、あの時の自分と今の自分は全くの別者だ。

 悟浄は流沙河を思う。
 あの河に満ちる弱水は、鵞羽さえも沈ませるとはいえ、それでも流れていた。
 上流から下流へ。
 過去から現在へ。
 自分も流れている。

 自分が何百年もの間抱えてきた悩みが、他人のたった一言で解消してしまうことがあるんだとすれば。
 それだけで、この旅に意味はあるのだろう。

 あの河から陸に上がって以来、悟浄を縛りつづけていたものが、微かに緩んだ。

「あなたに会えて良かった」
 悟浄の言葉に、百花羞の顔が薄紅に染まる。彼女を取り巻く空気が華やぐのが分かる。
 でも、それも次の悟浄の言葉を聞くまで。
「あなたの言葉があれば、今は歩けそうな気がします」
「……西へ……ですか」
「ええ」
「――御意志は、固いのですね」
「申し訳ありません」
 何に、とは言わずに謝る。卑怯な遣り方だ。
「悟浄様…… 私は、貴方が」
 言いかけた百花羞の言葉を、指一本で悟浄が遮った。困ったように微笑んで。その微笑みに、百花羞は言葉を続けられなくなる。




 明日には僧侶は西へと旅立つ
 公主は自分の世界を取り戻す
 せめて今宵二人で月を見よう
 許される限り月を見ていよう