此生之花

 満月が冴え冴えと、花果山を照らしている。石卵のかけらも長い影を落としていた。

 こんな夜は、彼が帰ってくるような気がしてならない。

 通臂公がいつも通り山頂で待っていると、思った通り遙か西方から輝く瑞雲が飛んできた。

「――よぉ、ただいま!」

 雲上から、懐かしい声が聞こえる。強くて、明るくて、時として恐るべき威厳を帯びる――斉天大聖の声だ。

 徐々に雲がおり、通臂公にも声の主の姿が認められるようになる。

「お帰りなさいませ、斉天大聖様」

「お前な、その呼び方はよせっつったろ? 俺はもう闘戦勝仏なんだよ」

「それは違いますな。この山にお帰りの時は、いつまででも貴方は斉天大聖様ですよ」

 キッパリとそう言いきった通臂公に、悟空は「しょうがねえな」と言いたげに微笑んだ。




 斉天大聖・孫悟空が唐僧の供をし、西天へ到着して早二百年近い時が流れた。

 悟空が天界から盗んできた仙酒や仙桃を口にし、何百年という寿命を手に入れた猿も、次第に数を減らして今では通臂公しか残っていない。天界の食物を口にしても、所詮自力で身につけたわけではない法力は長く持たぬ。この花果山で斉天大聖が単なる伝説になる日も近かった。


 たった一匹取り残された、当時を知る唯一の猿・通臂公は、今もこうして悟空の里帰りだけを心待ちに生きていた。




「いやー、西天ってのは退屈でいけねぇ! やっぱここでお前らと一緒に暴れてた時代が懐かしいぜ」

 悟空の真の生まれ故郷・花果山山頂の石卵の横で、悟空が持ってきた仙桃で二人っきりの宴会が始まった。仏になった身故に酒に酔えぬのが残念だと悟空はぼやいたが、桃だけでも十分楽しそうだ。

 あたかも酔っぱらいのように管を巻く悟空をからかうように通臂公は笑った。

「はは……では今からでも美猴王に戻られますかな?」

「うーん……それはできねえな。今の生活はちょっとつまんねえところもあるけど、やっぱり仲間がいるからな」

 彼の言う仲間とは、西天取経時代の師匠と弟弟子のことである。通臂公は悟空を通じて彼らの話を幾度も聞いているが、実際には彼らを知らない。

 こんな瞬間、通臂公は悟空と離れていた時間の長さを思い、少し切なくなる。

 通臂公の人生において、斉天大聖の存在は最も鮮やかな華だった。悟空が仙術を身につけて帰山した時――いや、悟空があの滝壺へ飛び込んだ時から、通臂公の人生はこの山とその主の為に捧げられたのだ。たとえ彼がこの山から旅立った後も。

 それは或いは、偏執という名の病かも知れない。

 だがそれでも、通臂公は命の続く限り斉天大聖の故郷であるこの山を守ってゆくと心に決めていた。



 たとえ――それがどんなに残り僅かな時間でも――



「そういえば、花果山の方はどうだ? まだ新しい王は出来ないのか?」

 通臂公の心境を察してか否か、悟空は突然話題を変えた。しかしこの話題にも通臂公の心は晴れない。

「ダメですな。貴方に匹敵する猿など、なかなか現れない。このわしの眼鏡に適う奴でなければ、花果山は任せられませんよ」

「ばぁか、俺ほどの猿なんているもんか! 程々のとこで手を打っとけよ」

「できません。貴方の後を任すほどの猿ともなれば、このわしが認めませんことには……」

「ったく、相変わらずお前は頑固だな! まあだからこそ頼りになったんだがな!」

 呵々大笑する悟空とは対照的に、通臂公は悟空の言葉にすっかり心打たれたらしく、涙ぐみながら頭を垂れた。

「せ、斉天大聖様……この私めにそのようなお言葉、勿体のうございます……!」

「だー! だからそういうのをやめろっての!

……でも、そうだよな。もうお前だけなんだよな、そう言ってくれるのは」

 仏となって西天に入り、天界における悟空の地位は確かに上がったかも知れない。少なくとも、あの頃の名ばかりの大聖扱いよりはずっとましになった。

しかし、こんなに一途に慕ってくれる者はやはり花果山にしか有り得ない。

 旅の途中に、そして旅を終えてから、手に入れたものは多い。それでもなおそれらと引き替えにしても、花果山に帰りたいと思える瞬間が悟空にはある。

 それを言ってしまいたい気持ちをこらえて、悟空は通臂公の肩に頭をもたれた。

「通臂公、お前は死ぬなよ」

「……大聖……」

「お前は、死ぬな」

 わがままなのは重々承知だ。でも。

「お前が死んだら、俺が帰る場所がなくなっちまうからな」

 通臂公がいる限り、花果山こそが悟空の本当の帰る場所でいられる。

 あの、悟空の人生の中で最初の華であった時間を共有する者がいる限りは。

 悟空の言葉に、通臂公は瞳に涙を浮かべながら涙声を絞り出した。

「わしは……死にませんよ。あなたがわしを要らなくなる日まで……」

「じゃあ、ずっと死ねねえぞ」

「かまいませんよ」

 そう、まだ死ねない。悟空がいなくなった今、花果山には主と呼べる者がいない。

 悟空に代わる主が見つかる日まで、そして悟空が自分を必要としている間は、

(まだまだ、死ねぬ――)

 悟空の頭を肩にのせ、二人で同じ月を見ながら、通臂公は決意を新たにした。




 翌朝。悟空がいなくなった花果山に、突然不思議な光が放たれた。その光は山頂の石卵からのものであった。

「何だこの光は!」

「こんな光、見た事ねえ!」

「一体なにが起こったんだ」

 口々にわめき立てる猿たちの中で、通臂公だけはその光が何なのかを知っていた。

「同じじゃ……あの時と、全く同じじゃ」

 これは、千年前と同じ光。石猿が生まれる前兆の光。

「こりゃあ……本当にまだまだ死ねぬわい」

 胸が高鳴る。こんな気持ちは、悟空が天宮を騒がしたとき以来ではなかろうか。



 通臂公にとっても

 花果山にとっても

 この世界にとっても。


 二度目の伝説が、今始まろうとしていた。