笑う骨
水中で、男が人の頭を食っていた。
鮮血が男の顔を、指を、胸を紅く染めてゆく。髪の毛は好みじゃないらしく、ブチブチ抜いては捨てている。
人頭は若い青年の物のようだ。閉じられたまぶたの間から、何かどろりとした液体が滲んでいる。
水中にも関わらず、抜かれた髪も青年の物らしき着物も、漂うことなくただ沈んでいる。
流沙河は、その弱水という性質故に何物をも浮かべることが無いという。
水流に押され、沈んだままそれらは河底を河口へと押されるように流れ――そしていつしか見えなくなった。
肉を削ぎ取り、目玉を飲み込み、頭が骨だけとなると、それは男の背後の小さな山に捨てられた。
山はすべて人骨で出来ていて、その高さは六尺ほどにもなる。
彼がここに来てから食べた人間の骨の大半がこの山である。いくらかは先程の髪の毛などのように流されてしまった。
数日間の空腹は、人一人食すことで満たされた。漸く得られた満足感に男が安堵のため息をついたとき、背後から囁かれた声が男の休息の一刻を撃ち破った。
『――捲簾よ』
「!」
長い間呼ばれたことのない名を呼ばれ、男は面をあげた。声は背後から聞こえたが、背後には誰も居ない。あるのはただ人骨の山のみ。
「……誰だ? 何故俺のことを知っている?」
人界に、自分の職を知る者は居ないはずだ。なのに今、「捲簾」と呼ばれたということは……
(天界の者が、何故ここに……?)
「誰だ、何処にいる。姿を現せ」
『ここだよ』
「見えぬ! 何処だ、何処に居る!」
『後ろを見てみよ、捲簾』
言われて振り向くと、そこには人骨の山しかなかった。
「……だれも……誰も居らぬ。あるのは骨ばかりだ」
『気づいたか? そうだ捲簾、話しかけているのは我よ』
「な……!」
その、刹那。
骸骨の山の麓に転がっている、一つの髑髏がフワリと浮き上がり、男の顔の辺りで留まった。
羽毛も花弁も沈むといわれる、この流沙河で。
「お前……は」
『そう。我は捲簾、そなたに喰われた僧侶の、髑髏よ』
そういえば、前の青年を喰う前に最後に食したのは坊主ではなかったか。
「お、俺を……う、恨んでいるのか?」
よく考えてみれば、人を食らう水怪が幽鬼を恐れるなど洒落にもなってはおらぬ。
だが、その時の男は、人頭をむしゃぶっていた姿を忘れさせるほど惨めに戦いていた。
脅える男をなだめるように、骨は語った。
『怨んでなどおらぬ。弱いものが強いものに喰われるは道理。
我を喰うことでそなたの命が助かるなら、其れこそ我が求むる道というもの』
「では、何故死してなお口を利く。俺が憎くて、俺に祟るためではないのか?」
そういうと、髑髏は上下の歯をカタカタ打ち鳴らせた。
笑っている。
『幼子のようなことを言う……そうか、さすがの捲簾大将様も祟りは恐ろしいと見える』
からかわれて男の頬が羞恥にサッと紅く染まる。
「お、お前は何物だ。ただの坊主ではないな?」
『……捲簾よ。そなた、何故人を食らうようになった』
骨は質問には答えず、逆に問い返してくる。
「ふざけるな!」
『巫山戯てなどおらぬ。
答えてみよ。何故、天界の武将であったそなたが、人を食うようになったのか?』
「……それは……」
そうだ。
何故、自分は人を食わねばならぬのか。
何故、自分は魔に身を堕としたのか。
何故――
何故、自分はこんなところにいるのか。
思い出されるかつての罪。
自分は昔、天で罪を犯したのだった。それゆえ、この流沙河に落とされた。
こんな弱水の河で、生きていられる魚は少ない。食料は滅多に手に入らず、唯一旅人だけは頻繁にそばを通った。唐の都から西へ行くには、この河は避けては通れない。
そしてその日。
男は腹が減っていた。
元天界の者といえども、何も喰わねば腹は減る。何日も、いや何ヶ月も続いた餓えが極限状態に達したとき、
河辺を旅人が通った。
その日から、男――捲簾大将は、妖魔となった。
「美味かった……あんな美味いモノ、喰ったことがなかった。でも……」
ひょっとして、彼は泣いていたのかもしれない。
「仕方がなかった、喰わねば自分が死んでいたんだ!」
『人を食う魔になるくらいなら餓え死んだ方がマシだ。
……とは、露ほども思わなかったか』
「――!」
『分かったか、捲簾。そなたは、自ら進んで魔に堕ちたのだ』
「う……ああ…………あああああああああ!」
分かった。分かってしまった。全てのからくりが。
流沙河に落とされることなど、大した罰ではない。
七日に一度降る刃も。
それらはただの序章に過ぎぬのだ。
捲簾に課せられた真の罰とは、自分の意志で人を食うこと。
自ら魔を選ばされることであった。
「わ……私は! 私はなんてことを……どうしたらいい、お前、僧なら教えてくれ!
私は、どうしたら救われるのだ? 教えてくれ、どうか――」
『私に救いを求めるか? 捲簾。されば、道は一つ』
カタカタと、乾いた音を立てて髑髏の口が開く。
『人を食い続けることだ』
「な……ど、どこまで巫山戯たら気が済むのだ!
これ以上私に罪を重ねろと言うのか!」
『それしかそなたの救われる道はない』
キッパリとした口調で言い切られ、困惑したように男は顔を歪ませた。
『人を食え、捲簾。特に我と同じ僧侶は逃してはならん。ここを通る全ての僧侶を喰うのだ。
そして、いつか「これぞ」と言う僧侶が来た時……それが、そなたが救われるときだ』
「お前は……お前は誰なんだ。天界の使いか?
ただの僧ではあるまい。何者なのだ?」
『いや、我はただの僧だ。そして、僧とは人を救う者なのだよ』
その言葉を言い終えた瞬間、それまで宙を漂うように浮いていた髑髏が急に浮上を始めた。
「あっ、待……!」
あわてて男が手を差し伸べ、その指で髑髏を捕らえた。
「おい、どうしたというのだ。まだ聞きたいことが、言いたいことがある。
話してくれ、おい!」
しかし、今は単なる骨と化してしまった髑髏は、もう口を利かない。
ただ少し気を緩めると、その隙を縫うように髑髏は宙に浮こうとする。
この、全てを沈める流沙河で、それでも浮こうとする髑髏は確かに自分を救う者かもしれない。
人を食って魔に堕ちた者が、人を食うことでしか救われぬというなら……試してみる価値はある。いずれにしろ他に手は知らぬのだから。
すぐに昇ろうとする髑髏を河底に留めるため、紐を通すことにした。こめかみの辺りに爪で細い穴をあけ、着物の裾を裂いて作った紐を通す。ふと思いついて、紐で輪を作り首に架けてみた。
約束の日まで、これを護符にしよう。これだけが、今自分が信じられる唯一のものだから。
そして長い時が流れる。
約束通り、数え切れぬ人を食った。
何故か僧侶を食べると、その度に浮かぶ髑髏が増えていった。
首に下がった髑髏が九箇を数えた頃、観音菩薩が訪れた。
そして――……
船が流沙河の対岸に着いた。
今は沙悟浄という名を貰った捲簾大将は、真っ先に降りて師匠の手を助ける。
「すまないな、悟浄」
柔らかく微笑む師匠の顔は、どこかで見たような気がした。
おそらく、彼こそが髑髏の言っていた僧侶で、そして――あの髑髏なのだろう。
兄弟子や馬も無事船を下り、一息ついた瞬間。船は九筋の陰風となってかき消えてしまった。
「へー、消えちまったなぁ」
「あの陰風が髑髏だったのか……」
(お役御免、というわけか)
兄弟子達の言葉を聞きながら、悟浄は一人微笑んだ。
男は――悟浄は救われたのだろうか。
これから救われるのだろうか。
その答えを出すかのように
何処からか、カタカタと骨の笑う音がした。