門出

 目線だけを上に向けて空を見る。憎らしいほどに青い空を、雲が横切っていく。空も風も鳥も草木も、全てが生き生きとしていて腹立たしい。

 もう何百年こうしているのか、斉天大聖は数えていない。数える気力もない。

 時折鉄丸銅汁を持ってくる土地神の他に言葉を交わす者もなく、首から下は岩に閉じこめられて指一本動かせぬ。


 ふと、錯覚するときがある。

 自分の他にはもう人も神も獣もおらず、自分だけがこの地に置き去りにされているのではないかと。

 そんなわけは無いとは知ってるのだけど。



 ――突然、上方に気配を感じた。こんな事はもう何百年もなかったのに。

「久しいな、観世音。何の用だ」

「ご存じでしたか。いきなり現れて驚かそうと思ったのに」

 いきなり名指しで呼ばれたことにも驚く様子もなく、フワリと雲を降ろすと観音菩薩が大聖の前に降り立った。その後ろにはもちろん恵岸行者が控えている。

「アンタの気は西方連中の中でも独特だからな。忘れん。そのお供もいるこったしな」

「あなたのせいだそうですよ、恵岸」

 楽しそうにクスクス微笑う観音に対し、恵岸は憮然とした表情が消えない。天界の捕り物騒ぎの時といい、今の師匠に対する態度といい、恵岸はこのサルに悪印象しか抱けなかった。

「で? 昔話をしに来たわけでもないんだろう? 用件は何だ」

 大聖が第一声と同じ問いを繰り返す。観音はせっかちねえ、とか何とか呟きながらも本題を切り出した。

「よいですか、斉天大聖――そなたがこの地に封印されてより、五百年の時が流れました」

(もうそんなになっちまってたか……)

 具体的な数字にされてしまうと、余計に今までの時間が長く感じられた。

「それだけの年月によっても、そなたの咎は洗われぬ――ですが、これからここに、取経の者が東土からやって参ります。そなたはその者の弟子となり、その者を護って西天まで旅をなさい。正果を修めて、初めてそなたの罪は消えるのです」

 長ったらしい説明だが、つまりは

「この俺に、人間の弟子になれってか」

 その通り、といわんばかりに観音が頷く。その笑みを見て、大聖は目をつり上げた。

「巫山戯るなよ貴様! 仮にも俺は天界を向こうに回して渡り合った斉天大聖様だ! 人間風情にぺこぺこ頭下げてたまるもんかよ!」

「なっ……きさま、お師匠様に向かってなんて口を!」

「恵岸、下がりなさい!」

 錫杖を振り上げ、今にも大聖に打ちかからんとする弟子を観音が一喝する。射竦められて恵岸は腕を降ろした。

「では、斉天大聖――この話はのまぬと仰る?」

「当然だ」

「それではあなたは一生籠の鳥、というわけですね」

 大聖の眉が顰められる。それを言われては何も反論できない。何とか絞り出すように、次の言葉を発した。

「脅す気か? そんなことで良く慈悲を説けるものよな」

「そうは申しておりませんわ。ただ、ここで行動を起こせないようでは、あなたの五百年という時間を生かすこともできませんことよ」

「生かすだと? この地に縛られた五百年を?」

 大聖が吼える。

「何が生かせるというのだ?

この地に縛られてからの孤独! 絶望! 悲嘆! 虚無! 懊悩! 諦念! 

これが――これが、何になる! 何だというのだ、俺の――俺の、五百年は!」

「それを、です」

「何?」

 観音の言葉に大聖は顔を上へ向けた。

 途端に、頬に雫が流れる。

 気が付かぬうちに、彼はその瞳に涙を溢れさせていた。

「あなたの、その孤独を生かすのです。絶望を生かすのです。悲嘆を、虚無を、懊悩を、諦念を。生かせるときは今しか有り得ません。それらのものは、今まであなたの心の内に無かったものばかりでしょう?」

 そうだ。

 無かった。

 斉天大聖にあるのは、自分の力に対する自信と誇り、自分を認めない者への怒り、能力と権力を求める欲求だけだった。

 この五百年に大聖はそれらの全てを捨て、今残っているのは自分で挙げたものばかりだった。

「せっかく知ったものを、無駄にしてはいけませんよ。それを知ったことで、あなたは確実に正果へと近づいているのですからね」

「正果……」

「それを得たとき、初めてあなたは本当に『天に斉しい』と呼ばれるに相応しい者となれるでしょう」

 以前なら、こんな言葉を言われたら「俺が『斉天』に相応しくないというのか!」と激昂したことだろう。だが、今の斉天大聖はそうはしなかった。不思議なほどに穏やかな気持で観音の言葉に耳を傾けられた。

「……じゃあ、俺はどうしたら正果を得られる? 坊さんとやらに付いていけばいいのか?」

「その僧侶は、おそらくあなたが今まで接触したことのない者です。

信じられないほど弱く、愚かで、何の能力もない…… 

ですが、その者を護り、その者と共に世界を見てご覧なさい。そなたは必ずや、自分の心の内に新たなる感情を見い出せますよ」

「――月並みな説得だな」

 そう、そんなことは分かり切ってる。

 いっそ陳腐と言っても良い。

 だが、なぜか今の大聖の心にはそんな陳腐な言葉が染み渡った。

「……まあ、この岩から解放してもらえるだけでも儲けものだ。やってやるよ」

「そうですか」

 相変わらず穏やかな、そしてどこか満足げな笑顔で観音が微笑んだ。

「では、そなたに法名を授けましょう。そうですね、そなたには……」

「いらねえよ、そんなもん。俺にはもう立派な名前があるんだ」




 ゴ、ゴ、ゴォォォ……


 轟音と共に五行山が崩れ落ちる。唐僧は、その様を呆然と見つめていた。

 砂煙が徐々に落ち着くと、その中央に一匹のサルの姿が見える。実に五百年ぶりに、斉天大聖がその姿を地上に現した。

 砂煙が完全に消え去ると、大聖の視線は真っ直ぐ唐僧に向けられた。

(あれが俺に「新たな感情」とやらを見せてくれるのかねぇ……)

 そんな大した存在には見えないが、

(「信じられないほど弱く、愚かで、何の能力もない」……なるほど、そんな感じか)

 思わず笑みが零れた。そんな大聖の様子を、唐僧は親愛の表現と解釈したらしい。ようやく怖ず怖ずと声をかけてきた。

「弟子や、そなた名はなんという?」

「はい。俺の名前は、孫悟空といいます」

「良い名だ」

 差し出された手を取る。この手の先に何があるのか、悟空はまだ知らないけれど。



 五百年ぶりの体温は、温かかった。